昭和46年08月14日 朝の御理解



 御理解 第89節
 「此方の道は傘一本で開くことができる。」

 此方の道は、傘一本で開く事ができる。問題はその傘一本が、問題である。ここで傘という事は、どのような意味で頂いたが良いであろうか。ある先生が、布教に出られる時に、お名前はちょっと忘れましたが、本部の何とかという先生、が一枚の絵を書いて下さった それは傘を担っておる、黒衣の修行生、その絵が傘を傾めに担うておる、絵を書いて話されたと。
 この傘一本ありゃ道が開けるぞと、布教に出てもこの傘一本あれば、人が助かるぞという事ですから、私は例えば人の軒下から、軒下を借りてでもよい、それは畳三帖のお広前で御神前、神様話お祀りしてあるそれでも良い。そういう意味にもとれると思うですがね。昔の先生方などは、やはり皆そうでしたですね、親教会を出られる時に何にも持って出られなかった。もういうならば、着のみ着のままと申しましょうかね。
 只、御社だけは背中に頂いて、そして道の信者も全然ない、知った人もないという所へ出られる。だからその出られるまでの、信心と一つの勇気というものがですね、大変なんですね。そこでそういう無茶と思われるような、生き方からでも道は開けるとこう仰る。だからその根本になるものは、何かというと一本の傘で、傘を持っておられると雨が降っても、これをさせば濡れる事はない。
 暑い日が照ってもこれをさせば、日をよける事が出来ると言う事だと私は思う。けども、仲々その傘一本が頂けんのだ。不安の方が大きい。降ったら濡れはせんだろうかというような、それは傘を持たないから、いわゆる確信がない。そこで修行させて頂いて、神様のいよいよ間違いない働きを、体験した上にも、体験させて頂いておらなければとても出来る事ではない。まあいうならば宗教による安心、けどもその安心、いうならば大安心とも申しましょうか、安心がなからなければ出られない。
 不安では出られない。そこでままよという心。それこそ死んでもままよと言う様な、元気な心、勇猛心を持ってと言う事にもなる。だから安心のおかげを頂くと言う様な事は、実は大変に難しい事だけれども、こういう信心を続けていけば、安心のおかげが頂かれるというところまでは、頂かねばならぬ。いうならば、おかげになると確信が出来る。その神様を信ずる力がなからなければ出来る事ではない。だから傘一本というのは、神様を信じて疑わない、信ずる力というてもよかろうと思う。
 その信ずる力があれば、傘一本を簡単に開く事が出来る。それまでが大変である。最近合楽が非常に、クロ-ズアップされて来たというか、今までは、実力はあっても皆んなに認められなかった。皆知らなかった。ところが最近は、認められ出して来た。合楽、合楽と皆がいうようになった。ところがそこで、いよいよ私が感じておるのは、本当に実力のないという事である 内容がないという事である。人に認められなかった時は、実力はあるけれども、認められないとこう思っておった。
 ところがそれが、最近少し認められ出したら、実力がないなあ、内容に乏しいなあとしきりにそれを思う。まあ皆さんが合楽、合楽というて下さる。けれどもその合楽、合楽というて下さるその合楽が倒れれば、昨日住友銀行の支店長が見えられました。此処との取引という事を願いとして、まあ見えたわけであります。向こうからどうぞ取引してくれというて見えたのじゃない。こちらがお願いをしたから、まあ始めの間はいうならば、けんもほろろに断られた。
 ところが不思議な縁を頂いて、佐多さんの奥さんが、支店長の奥さんと友達だと、学校が一緒であると、日田出身の方である。しかも話を聞いてみると、日田教会に長年御神縁を頂いて、お母さんは毎日朝参りをなさっている程しの、熱心な信者であると言う事が分った。行かれてからそれからまあ、合楽教会と言う事を、もういっぺん調べてみろう、見てみようと言う事になって、それから本部の方へ行かれまして、それから合楽の事をつぶさに聞かれた。
 ところがこれは昨日、支店長の話ですけれども、合楽の評判というのは素晴らしい。もう進展に、進展を続けておる教会であると言う様な、素晴らしい事を聞いてみえて急に心が動いて、本部ではああいわれたけれども、いっぺん行ってみてと言う様な気持ちで昨日は見えた。そう言う様に合楽が大変実力以上に評価されるというか、認められて来たという事になって来たら、いよいよ今度はこちらの実力が乏しい事にですね、悲しい位に実力を本気で頂かにゃいけないと思うようになった。
 最近はしきりにそれを思う。ならばその実力とはどう言う事であろうか。私は今日の御理解を頂いて、傘一本で道を開ける程しの力をね、銘々が頂いておる人がどれ程あるかと言う事です。教会での中に。それ程しに神様を信じ、親先生を信じておる人が教会の中、信者の中にあるかと言う事です。力というものは、教会が大きいとか、信者が多いと言う事だけじゃない。
 先日私は、ある本を読まして頂いとったら、こう言う事が書いてあった。宗教する者は多いが、信仰者は少ない。宗教に関する教養的関心はあるが、信仰的帰依をする人がない。本当に合楽の信心に帰依しきっておるという人が少ない。宗教は沢山ある。けれどもその宗教に本当に帰依しておる人は少ないというわけです。今朝から私はお夢を頂いた。そのお夢はですね、それはもう大変な大きな石ですよそれが古風な格好をした、堀上げて見ると、大きなお宮さんあたりに使う手洗い鉢がありますね。
 あの手洗い鉢のそれこそ、偉大な手洗い鉢である。それを堀起こして、堀おこして横においてあるというものである。それをどこかの百姓の人が何人かで見に来てる。私がそれを説明しておると言うた様なものであった。昔は、昔というか何とかという女の先生がおられますね。大阪の片島せんという取次者がおられます。女の方でいろいろと神徳にすぐれられた先生である。
 天地の親神様から直接にいろいろと御指図を受けられる程しに、ある時に大きなお手洗い鉢の奉納があった。それを毎日その手洗い鉢が空になる程しの信者を御差し向け下さいと願われた。それから神様に願われたけれども、いつもなら、すぐにそれに対して御返事を下さるのに神様が何とも返事をなさらない。それからまた、重ねて、その事をお願いなさるとですね、この手洗い鉢で心を清めたいという信者氏子をお引き寄せ下さいと何故願わんかという言葉があった。
 このお手洗い鉢が、空になる程しの信者をね、沢山の水が溜まるでしょう、その水を毎日、空になる程しの信者を、沢山集めて下さいと願われたら神様は、見向きもなさらなかった。返事を下さらなかった。そして重ねてその事をお願いなさるとです、この手洗い鉢のお水で手を清め、口を清めると言う事は、心を清めるという意味なのである。そういう心なのである。心を清めさせて下さいと願うて参ってくる信者氏子をお引き寄せ下さいと、何故願わんかとお答えがあったと言う事。
 どうでしょう皆さん。この事をお願いせんならんこの事をお伺いせんならん、この事はどうでもおかげ頂かんならんから、朝参りをはじめると言う様な信者がですね、それこそ千万集まっても、それは烏合の集です。日々の御理解を頂いて、本気で限りなく美しゅうなって行けれる、本気で清まって行けれるそれが尊い。それが有難いとして、お引き寄せ頂く信者が十人が二十人三十人と増えて行くと言う事が教会の力なのである。そういう意味に於いて私は力、今合楽、合楽ととりさたされる程しの。
 おかげ頂きその住友の支店長が聞いてみえたという合楽の評価がもう、本当に大変よかったとか、素晴らしかったと聞けば聞く程、果して、内容を思って見る時です、今までは実力がある、それを皆が認めきらない、皆が知らないと思うておったけれど、皆が知り出したら、いよいよ今度は実力がない、実力が乏しい事を実感させて貰う。いうならば、傘一本で開ける程しの力を持っておる者がないと言う事、程しに神様を信じておる信者氏子が少ないと言う事である。
 昨日、十三日会が開かれる前に電話がかかってきた。伊万里の竹内さんからである こちらへお母さんと二人、娘さんの恵美子さんの運転で出だして間もなくのところで、自動車から衝突されたそうである。勿論、向こうが全面的に悪いそうである。まあいさぎよいものですね、自動車と自動車が噛みあったら自動車の中に頭を突っ込んでですね、これがはなれなかったそうです。そげん自動車が滅茶苦茶になった 自動車と自動車が噛みあってから、こげんなってしもうた。
 けどもおかげを頂いて私はほんのかすり傷程度、母がガラスが割れたのでその破片で顔にガラスの破片が入って今、医者に参りましたからとう言う事であった。そして十三日会が終わりましてから、ここで四,五人でお話しとりますところへ、熊本の御兄弟の方と、それから和教さんとエミ子さんと、当の本人が御礼参りに出て参りました。話を聞けば聞く程、おかげを受けておると思いました。病院にお母さんが行ったけど、やっぱり三日か四日位病院におったがよかろうと言う事で病院に入院されたと言う事である。
 そしてそれを聞いて、秋永先生がちょっと、お見舞いにいこうというて、昨日は夕方から高橋さんと三男さんと三人で、御見舞いにいかれた。夕べ十二時一寸過ぎに帰って見えました。お話を頂いて、神ながらの事ねというた事でした。丁度、病院の近所であったのが、竹内先生の大学の同窓だった。病院の先生 それから警察が来てこうしたのが、竹内先生の中学時代の同窓の、お巡りさんであった。それから病院に入らせて頂いた部屋が十三号室であった。
 しかもその十三号室がさくらという名前の病室であった。私はそれを秋永先生から聞かせて頂いて、本当にいつもの事ながらこういう間違いのない働きの中にね、あああって、こうあったんだと。昨日の朝の御理解がそうでした。神と仲ようする信心、神を恐れるようにしてはならんぞとおっしゃるが、神様はいつも撫ぜたりさすったりばかりはなさらん。おかげ頂いた、おかげ頂いたといや神様にこう接近してくる。有難いで接近してくるから撫ぜも出来れば叩きも出来る神様は。
 一生懸命信心しよると悪か事が起こる、却って困った事が起こるてんなんてん、という人があります。そう言う事はあります。事実です。けれどもね、それは接近しとるからそこは間違うとるぞとこう肩を叩かれたり、頭を叩かれたりするわけです。それを困った事だと、だがそういう時に神を恐れてはならんというのである。ですね昨日の御理解は。母の愛情に対して父の愛情、その両方の面がわからせて頂く。最近ここでいわれております、桜の花の信心から梅の花の信心と。
 神の願いが成就する日として合楽ではその十三日を大事にする。それが神様の願いがね、さあこれからは一つ本気で梅の花の信心になってくれよという願いをそこに聞くような感じがするでしょう。そういう神の願いをです、善しにつけ悪しきにつけ神の願いを聞き届けて頂ける程しの信心を、私は傘一本で開く事が出来れる力というのは、そのようにして出来ていくものだと、そのようなところを通らして頂くのだと、いよいよ神様がです、信じられると言う事。
 昨日みえられて、大変に元気で、顔をいろいろとしとられるから、けれども元気で大変に喜ばれる。そしてあちらにやらせて頂いて、自動車を入れたと同時に竹内先生がみえる。まあ職員の方達でしょうかね、御一緒に見えられた。その辺のタイミングの素晴らしい事、驚いてしまう。帰りには沢山きておるお見舞いをこれを持って帰って下さいと、今日はそういうわけにはいきませんよ。お見舞いに来てお見舞い貰って帰るなんてそういうわけにはいきませんよと、まあ辞退して帰ったというておられましたが。
 もう本当に神様の御働きの中に一分一厘間違いのない、それは擦さすりされる、それも有難いが、そうして叩かれる事も又、神の願いが成就して、このようにしておると言う事を信じておらなければ出来ない事である。昨日、久留米の井上さんが十三日会に発表しとられました。ある教会の総代の息子さんが親子連れの子供さんをはねられた。子供さんはあえなく亡くなられた。
 そういう事故に遭われた時にこれ程夫婦で日参り、夜参りさせて貰うとるのに、こげな事なら信心は止むるとみんなに言いよんなさると言う事を聞いて、何とお粗末な、御無礼の事を言われるじゃろうかと、それを聞いて思うたという話が出ておりました。信心しておるからと、それとこれとは別である。神様にいわゆる宗教しとる人はあるけれども、信仰者が少ない。宗教的教養には関心があるけれども、信仰的帰依がない。本当に帰依しておったらそんなもんじゃない。
 本当に合楽に帰依しとったら、それをおかげとして、すぐ御礼参拝が出来ておる。わざわざ伊万里から。そういう信心者がです、合楽で沢山出来てくる事を、合楽の力だと私は思います。只、御利益をおかげと、これを願わにゃいけんというて、沢山の人が集まって来ても、それは大した事はない。いうならば、烏合の衆である。力にはならん。私自身もどうぞ、この夢の中に頂きました、ああゆう大きな手洗い鉢を据えさせて頂いて、その手洗いの水が空になる程しの信者をお引き寄せ頂きたいと思う。
 けれども、お引き寄せ頂く信者が、清めさせて頂く事を、限りなく美しくならせて頂く事を楽しみに参ってくる信者氏子を、お引き寄せ下さいと願わなければおられない。私は今朝から改めて、いつものように出て参りました。昨日その住友の支店長が何か私をまるきり、神様のように聞いて来ておるらしいですよ。だから最後のお食事の時だけ、私は一緒にさせて頂いたが、先生と一緒に食事をしては勿体ないといわれるのですよ。そしてここで、日々お話をなさると言う事がね。
 もう四千時間お話になっている話が、もう同じ話が一つもない。どうしてそのような事が出来るのであろうかと、不思議に思うとりますという話。私共支店長として、毎朝朝礼がある。朝礼の時に一口づつ何か言わにゃならん。それが種無しに困っとりますと昨日、言うとられたから、今朝からふっと思うて、先年から出来ました御理解、感話集というのがありますね。あれをわざわざ持って来て貰ってから、改めて見せて頂いた、一口づつではあるけれども。これは信心がありうが無かろうが、これを贈って差し上げたら毎日、その訓話というのでしょうかね。
 朝礼に言われる何かヒントになるようなものになりわせんだろうかと思うて、改めて読ませ頂いたんですけど、成程その全てがです、清まる事であり、限りなく美しゅうなる事が説かれてある。これ程しの事を頂いておる。だからそこに着眼しなければですね、本当の信心者として、又本当のおかげは頂けない。今日改めて私はたった一口宛の御理解感話を頂いてそう思うた。神様とか拝むとはいわなくても、何かお話なさるヒント位になるんじゃなかろうか。ひとつ是非贈って差し上げよう。
 昨日あげん言いよんなさったと思うて今朝から改めて見直させて頂いた。そういうお話をお互いが日々頂いておるのである。それに果して私共は本気で、清まる事の楽しさ本気で限りなく美しゅうなるという精進がなされとるであろうか。これ程信心するのに、どうしてこう言う事がと言う様な心が起きよるのではなかろうか。そこからしか力は生まれてこない。傘一本で開けてくるという道も開けてこない。傘一本と言う事は、神様を信じて疑わないという確信、又は神様を信じ切って生まれて来る所の心が安らぐ。
 安心そういう心が生まれてくるならば、商売をするならば元手なしからでも、そこから商売を開く事ができるでしょう。布教に出るならば、それこそ人の軒下を借りてからでも、人が助かっていくおかげが受けられるでしょう。それがいっぺんにして、そういう心が生まれてくるとは思われませんけれども、そういう心をです、頂かせて頂く事を目指して日に日に清まっていく、限りなく美しゅうなっていくという、精進からしか確信も生まれなければ、安心も生まれないという事です。
   どうぞ。